2023年3月18日土曜日

「死人を葬ることは、死人に任せておけ」

これは ルカによる福音書9章60節の聖句です。

この時の状況
イエス様がある人に「わたしに従ってきなさい」と言われたとき、その人の父親が亡くなったところだったので「まず、父を葬りに行かせてください」と返事しました。
そのときのイエス様の言葉です。
「その死人を葬ることは、死人に任せておき、あなたは出て行って神の国を述べ伝えなさい」。 

「死」に関連した聖句を拾ってみますと、

創世記 2:17に「善悪を知る木の実は決して食べてはならない。それを食べるときっと死んでしまう」とあります。
神様はウソは言わないと思いますので、この言葉は本当でしょう。
実際には食べてしまったので、アダムとエバは堕落した時点で死んだことになります。
黙示録3/1には、「あなたは生きているというのは名前だけで、実は死んでいるのである」とも書かれています。

あるいは、以下のような・・・・
ヨハネ11/25:「私を信ずる者は、死んでも生きよう」
ヨハネ11/26:「また、生きて私を信ずる者は、永遠に死なない。このことをあなたは信ずるか」 
ルカ17/33 :「命を保とうとするものはそれを失い、失うものは生き続ける」
ロマ書6/23 :「罪からの報酬は死であり、神からの賜物は・・・・」
 
ここでいう「死」には2つの意味があります。
1.一般的に使われる意味での死・・・・肉身が死んだことです。
2.堕落して神様から離れてしまった状態を死と言っています。堕落は人間始祖の時に起きたので、今の人間はすべて死人です。

この聖句にある最初の「死人」は、肉身が死んだ人間(亡くなった父親)、二番目の「死人」は堕落した人間です。
続けて、「あなたはそれに構わず、神の国を告げ広める生命のみちを行きなさい」と言っていることになります。

原理講論「死と生に対する聖書的概念」付近より


2023年2月3日金曜日

歴史は繰り返す?

 歴史は繰り返すと言われますが、本当でしょうか。
繰り返すと認められるとすれば、時間的・空間的にどういうスケールで繰り返すのか?

私が教わったところでは、ユダヤ教を中心とした歴史とキリスト教を中心とした歴史では、その出来事に相似性が見られます。
それ以前にもあるのですが、この2つの流れが最も正確に繰り返されています。

聖書の記述をもとに計算すると、アダムとエバ誕生時からイエス様まで約4000年です。
ユダヤ教の信仰の祖アブラハムからイエス様までが2000年。
アブラハム以前は個人・家庭中心の歴史、以降は民族の歴史へ拡大されます。
現代まではイエス様以後2000年なので、合計約6000年になります。

ユダヤ教より前の段階を含めると、大きく3度の繰返しになり、それぞれ一巡するのに約2000年かかっていますが、最初の一巡目での聖書の記述は、一般には受け入れ難い点があります・・・・アダムやノアは900歳まで生きたとか!
・・・・しかし、その時代でもなぜか合計2000年で、年数を合わせています。

神様が人類に働いてきた歴史とも見ることができ、遠いメソポタミヤあたりの個人から始まって、空間的な範囲も拡大し、近頃は日本も含めて世界的に影響を及ぼすようになったと考えられます。

聖書の記述に基づいて年数カウントしますと、以下の対応があります(時代ごとの名前付けは原理講論による)
二巡目(旧約時代)各出来事の年数カウントの根拠は、聖書を追って行くと拾うことができます。三巡目(新約時代)は学校の歴史教科書にも登場する出来事です。

1.「エジプト苦役時代」と「ローマ帝国迫害時代」:年数はどちらも約400年
(旧約時代):ヤコブの家庭がエジプトに引越して定着し殖え広がったが、奴隷として苦役した。 モーセを指導者としてエジプトを脱出し、カナンの地に定着。
(新約時代):イエス様が十字架でなくなり、キリスト教がローマ帝国に広がったが、迫害を受けた。 ローマ皇帝テオドシウスがキリスト教を国教とすることにより迫害時代終了。

2.「士師時代」と「教区長制キリスト教会時代」:年数はどちらも約400年
(旧約時代):オテニエル、サムソン、サムエルなど15士師がイスラエルを指導
(新約時代):教区長たちがキリスト教徒を指導

3.「統一王国時代」と「キリスト王国時代」:年数はどちらも約120年
(旧約時代):サムエルがサウルに油を注ぎイスラエルの王となった。その後、ダビデ、ソロモンと各40年ずつ担当。
(新約時代):法王レオ三世がチャールズ大帝(カール大帝)にローマ帝国皇帝の冠を授けた。

4.「南北王朝分立時代」と「東西王朝分立時代」:年数はどちらも約400年
(旧約時代):ソロモン王の時代に不信仰がはびこり、北朝イスラエルと南朝ユダに分裂
(新約時代):チャールズ大帝の孫の代で東西フランクとイタリアに三分され、その後イタリアは東フランクの支配を受けた(実質的には二分)

5.「ユダヤ民族捕虜および帰還時代」と「法王捕虜および帰還時代」:年数はどちらも約210年
(旧約時代):北朝イスラエルはアッシリアにより滅され、南朝ユダは新バビロニアによりバビロンへ捕虜として連行され生活。アケメネス朝ペルシャのクロス王によって解放され、三次にわたって故郷に帰還。
(新約時代):法王ボニファキウス八世がフランス王フィリップ四世と衝突。法王クレメンス五世時代に、法王庁を南フランスのアビニョンに移され、フランス王の拘束を受けながら生活。法王グレゴリー十一世の時代にローマへ帰還。

6.「メシア降臨準備時代」と「メシア再降臨準備時代」:年数はどちらも約400年(?)
(旧約時代):バビロンの捕虜の立場からエルサレムに帰還。律法を研究。信仰の刷新運動をしてイエス様を迎えた。
(新約時代):宗教改革以降。信仰の新しい道を開拓。再臨主は?



余談ですが、作曲家のベートーヴェンも、「我々の星に人間の意識が生まれてから五千八百十八年たつ」と言っています(BEETHOVENさんは、1770-1827の間、地上に生存されています)
ベートーヴェンさんも聖書から計算したのかも知れません!・・・・彼は、こういう足し算は苦手だったのではないでしょうか・・・・にも関わらず、これがベートーヴェンの言葉として残っているのですから、何回も検算して確認したかも!










2023年1月4日水曜日

洗礼ヨハネの不信

 一般の聖書解釈と原理の大きな相違点の一つが、洗礼ヨハネに対する評価です。

一般の聖書解釈では、洗礼ヨハネはイエス様をメシヤと証した立派な人物となっていますが、原理ではイエス様の行く道を遮った最も大きなつまづきの石と解釈しています。

一旦は証したのですが、その後、不信に陥ったというのです。

証した聖句は分かりやすいですね
「わたしはその人のくつのひもを解くにも値しない」とか、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とか、「このかたこそ神の子である」(ヨハネ1/29付近)・・・・など、イエス様を讃えています。

一方、不信した聖句は
1.「彼(イエス様)は必ず栄え、わたしは衰える」(ヨハネ3/30)
2.「『きたるべきかた』はあなたですか。それとも、ほかの誰かを待つべきでしょうか」

1については、もし行動を共にしていたらこういう言い方はしないだろうというのです。
出生時には洗礼ヨハネの父親(祭司ザカリヤ)が、
「生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださる」と預言しています。(ルカ1/75)
本当にイエス様に侍るなら、こうは言わないし、一緒にいて一番弟子になるでしょう。

2について、
洗礼ヨハネは一旦証したのですが、その後イエス様がメシヤであるという確信をなくしてしまい、弟子を遣わして確認させています。
イエス様は「そうだ!」とは言わずに、少し遠回りして応えました。
イエス様の回答は
「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。盲人は見、足なえは歩み、らい病人は清まり、耳しいは聞こえ、死人はよみがえり、貧者は福音を聞く。わたしにつまずかない者は、さいわいである」(マタイ11/4付近)

さらに、洗礼ヨハネがつまづきの石になったのは、自分自身が何者かわからなかったためです。
人々が洗礼ヨハネに「あなたはどなた?」と質問したのに対して、
「わたしはキリストではない」と言い、エリヤでもない、預言者でもないと言っています。
そしてわけの分からないことを言いました・・・・「主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声」だとか(ヨハネ1/20)

では、イエス様はなんと言ったか、
「この人こそは、きたるべきエリヤなのである。」(マタイ11/14)

当時の洗礼ヨハネは有名人で、出生当時から奇跡が起きて国中に知れ渡っていましたし、メシヤではないかと間違えられる程の人物。

対するイエス様は、名もない大工の息子。しかも安息日は破り、神殿の屋台を覆し、取税人と遊女がお友達!

どちらが信用されるかは決まったようなものです。
先に来るはずのエリヤがまだ来ていないのに、何故メシヤが来るのかという疑問も当然です。

神様もひとこと「あんたがエリヤだよ!」と言ってくれればいいのに、自分で悟れというのは難しいかも知れませんし、それを人前で発表するのは勇気もいるでしょう。

原理講論では、洗礼ヨハネが不信するようになったのは獄に入ってからとなっています。
簡単に言えば、ぼけちゃったのです(普通の人間並みに戻った)

ちなみに、イエス様の言われたこの聖句・・・・
「女の産んだ者の中で、洗礼ヨハネ以上の者は現れなかった。しかし、天国で最小の者も、彼以上である。」マタイ11:11

これについても回りくどい解釈をしているようですが、原理の解釈はストレートです。
最も近しくイエス様を証すはずの人が不信してしまったので、最も小さい人になったのです。

つまらない怨みから投獄され、ヘロデ王に首を切られて死ぬなら、イエス様と共に行動し、となりで十字架についた方がずっと良かったのでは?・・・・いや、洗礼ヨハネがイエス様と一緒に行動したら別の道があったかも!

2022年12月20日火曜日

被造世界を創造するのにどれくらい大変だったか

 以前、プログラミングの世界に「使って天国、作って地獄」という言葉がありました。
操作する人間の側の使い方が細部にわたって予測・研究されていて、非常に使いやすいシステム(プログラムとかアプリとか)は、それを作る側としては非常に大変(地獄)だというのです。
出来上がった動作から造る立場を類推する人は少ないし、どのようにして出来上がるのかその過程まで考える人は少ないと思います。

被造世界を創造するのにどれくらい大変だったか。
旧約聖書の創世記には七日で世界を造ったと書かれています。
神様は全知全能とか、万能とか言われます。
この被造世界を造ったとすれば、人間の目から見れば全知というのはありかもしれませんが、全能とか万能というのはどうなんでしょう?
誤解を受けて迷惑しているではないかと時々感じることがあります。

個人的な考えですが、被造世界の想像はとても大変・・・・その程度は神様としても不可能に思えるほど・・・・だったろうと思います。
聖書の七日で造ったというのはもちろん譬えでしょう。
どうすればできるだろうかと神様も真剣に考えたと思います。
物質世界だけでなく、喜怒哀楽のような感情までつくり出して、人間や動物に与えるとなると、想像することすら難しい。

最近、ネアンデルタール人とホモサピエンスのDNAを調べてノーベル賞をもらった人がいました。
それで人類進化の過程がわかるとか・・・・私は進化論者ではないので納得してはいませんが!
この宇宙ができるには何十億年もかかっているとか・・・・この点は疑っていません。
ただし、造ったのは神様です。
そして、神様といえども何十億年(あるいはそれ以上)もかかったと受け止めています。

ほかにもピテカントロプスとか、アウストラロピテクスとかいろいろいますが、何故いるのか?
ネアンデルタールがホモサピエンスに進化したというのは間違いで、ネアンデルタールは神様の1つの試作品として造られ、それを人間として認めるには不合格に終わったとも思えます。
神様だって何度もトライして頑張ったのです・・・・神様がそのような性質を持っているので、人間にもそのような性質があるのです。

どうやったら効率的に且つ確実に造れるだろう?
バラ科というのをネット検索してみると、バラ科には、バラだけでなく、サクラやウメ、ビワ、ナシなどその他沢山の種類が含まれます。
最初に基本となる設計図を作って、実体化させます・・・・バラができます。
さらに設計図の一部(属性)を変化させながら、別の個体を造る・・・・そうすると、もとはバラと言っても、その先にはビワが出たり、サクラが出たりしてツリー構造の組織体系になります。
神様もどうやったら無駄なく最短時間でできるのか真剣に考えてたどり着いた一つがこの方法かも。

あちこちの分野で同じような手法が使われています。
プログラミングの世界にも、オブジェクト指向というのがあって、似たことをやっています。
世界中のプログラマは神様の後を追いかけているのかもしれません。
自分でもプログラミングしていて感じたことがあります・・・・神様と言えども、ドラえもんのポケットみたいに簡単に創造したのではなく、どうやったら無駄なく最短時間でしかも理路整然とできるのか真剣に考え抜いてたどり着いたのがこの方法なのかな?・・・・と


マッチング

教会の合同結婚式は、日本でも非常に有名になりましたが、マッチングの方法は変化してきています。
ごく初期の頃は、対象者となる男女が1箇所に集まって、実体で一人ずつ相手が選ばれました。
最終的には推薦された相手と話し合って決めたようですが、その場ですぐ断るというケースは殆ど無さそうです。
しかし最近は、そのようなパターンは少なくなりました。
現在では、昔の見合い結婚に近い方法で相手を決めることが多くなっています。
デートの場なども本人たちの意志で何度も設けています。

始めは親どうしが連絡し合って先に顔合わせし、その後に子どもたちを含めて会うことが多いのですが、今ではなかなか決まらず、何度も見合いする方もいるようです。
うちの子の相手探しをした時に、相手の家庭で起こったこと・・・・相手の両親が信仰熱心なため、思い込みで進めてしまい、土壇場になって子どもの方が本心を言う。
子どもとしては、当初は親の気持ちを傷つけたくないので、従順なのですが、やがて断り切れなくなる。
親たちは長年信仰生活をして安定していても、案外子どもの気持ちは理解していなかったりします。

ところで、マスコミの報道など見ていると誤解されがちですが、教会では男女関係の乱れを一切認めません・・・・これは教理から考えれば当然のことです。昔の言葉で言えば品行方正!
人間堕落がここから始まったと説いていますし、すべての罪の元になっているのが、この原罪であると説きます。
教会では一つの建物で団体生活をすることが多いので、勝手な憶測から根も葉もない噂が飛び回ったこともありますが、この点は完全な誤解です。
異性に対して触れることはありません・・・・相手がまったくの部外者の場合や、公的な場面で一般的・常識的な儀礼を無視するわけには行かない時など、やむを得ないこともありますが、信徒どうしではポンと肩を叩いたり、握手することすら殆どありません。
車で異性を送る場合なども、席が空いていれば、普通は横に座るのではなく、後ろの席に座ってもらいます。
祝福を受けてから度々教えられるのは、「自分の奥さんだけが女性で、ほかはダイコンやカボチャと思え」とか!
男性と女性はあくまでも1:1が原則・・・・それが相手を最も大切にできる方法でしょう!

・・・・では、普段の生活ではどうなのか?・・・・話をするなというのではありません。異性として見ずに兄弟姉妹として見る、あるいは親として、息子として対するということです・・・・議論して言い争いになったりするのはもちろんOK、この点は大いに推奨しています。
・・・・なので、稀には間違って駆け落ちのようなことも起こります!・・・・そうなったら真っ向から教理に反するので、特に懲罰があるわけではありませんが、そのまま居座るのは当然難しくなります。
男女は、いつかは結婚することを前提として創造されているので、いつまでも独身でいろというのではありません。
神様も一緒に結婚式に同席してお祝いして下さる時が来るというのです。

ところで、はなしが少しずれて来たのでもとにもどしましょう・・・・
私のマッチングはどうだったかというと、実体で出会う前に相手が決まりました。
上司から「決まりましたよ!」と言われて、何のことかと思い「何が?」と聞き返しました。
その後で、相手の写真を見せられて「あ、そうですか・・・・!」でした。

それで、どんな相手が選ばれやすいのかについてですが、様々ある中で自らの経験としては以下の2点です。これが最も多い傾向のようです。
1.顔が似ている
2.性格は正反対
どちらも時間をかければ、ある程度は確認できることですが、前もってそのような下調べをするとは聞いたことありません。
友人から聞いたところでは、写真を見ながら先生がすべて決めたとか・・・・1組あたり数秒とか、数十秒とか!

それから実際に家庭を持つまでの日数はまちまちで、一旦OKはしたもののその後葛藤が出てきて、時間のかかる場合もあります。
家庭を持つ直前には、信徒たちの前で挨拶・自己紹介をするわけですが、私たちの場合もすぐに笑いが起きました。
その理由は上記1です。しかも、その後よく分かりましたが、性格は正反対でした。
子どもが生まれてからは「あそこは三つ子だ」と言われたことも・・・・!

「相手は人間で異性ならばだれでもいい!」・・・・これは一般に言われる意味とは別の意味で本当のことです。
どんな相手でも幸福にしてみせる・・・・という意味で誰でもいいわけです。
しかし、相手は必ず一人です。
今の時代は、男も女も無数にいるし、テレビなど見ていると美形が殆ど!・・・・相手選びも大変でしょう。
エデンの園のことを考えてみると、神様はアダムとエバしか創造されませんでした・・・・相手は一人だけですから選択の余地は無し!
一般の結婚に比較して、教会の結婚は離婚率が非常に低いというのは本当のようです。