うちの教会の言葉を部分的に切り取って、一般に流通している意味として理解されると困る言葉があります。
私にとってその筆頭が「絶対服従」・・・・もし自分が教会に通うようになった初期の時点で、この言葉を聞かされたら、つまずいて通うのをやめたかも知れません・・・・人によっては非常に大きなつまづきの石になりそうです。
「自己否定」という言葉なら以前からありますが、これは自分の悪い所を正すというような意味で、宗教でなくても一般に使用される言葉です。
財産を捨てて出家する場合などにも、過去の自分を清算するというような意味で使われたり・・・・。
「絶対服従」という言葉が出てきたのは、私が教会通いを始めたよりもかなり後のことで、個人的には非常に驚かされました。
ただ、その時点では信徒になってある程度の年月が経っていたので、それほど悪い受け止めはしませんでした。
「この言葉は、普通の日本人が認識しているような意味で使っているのかな?」と思いましたが、どうやらそうでは無さそうです。
ただ、その時点では信徒になってある程度の年月が経っていたので、それほど悪い受け止めはしませんでした。
「この言葉は、普通の日本人が認識しているような意味で使っているのかな?」と思いましたが、どうやらそうでは無さそうです。
先生の講話では以下のようにあります。(天聖経1356~7ページ付近)
「服従には自己意識がありません」
「自らの意識観念がなかったということです。完全にゼロ、完全に無」
「神様御自身が、絶対信仰をもって愛の相対を造りました。『わたしがこのようにすればこうなる』と考えたあとに造ったのです。絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって、自分自身を完全に投入したのです。」
普通、日本で服従と言えば、心では逆らいながらも強制的にに従わされるという意味あいが強いので、それとは違った状態ですね。
こういうのは別の言葉に訳するのが良かったのではないかと思いますが、うまい言葉が見当たらないかも・・・・!
今では、「相手のことを大切に思い、我を忘れてつくす」と解しています。
例えば、親が幼い自分の子に対する場合のような状態です。
「ウラミ」という言葉なども誤解されがちかも・・・・「怨」と「恨」
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