「偶像崇拝」と「民主主義」については他の場所にも書いていますが、ここでもそれらをふまえて率直に(!)書いてみることにしました。(他の部分で引用した文も重複しています)
まず偶像崇拝についての定義・・・・トインビーさんによれば、
「全体ではなく部分、創造主ではなく被造物、永遠ではなくて時間に対する、知的ならびに道徳的に半ば盲目的な崇拝であると定義することができよう。」/8-p31
「偶像崇拝」をネット検索してみると、非常に分かりやすい説明となっています。要するに偶像の崇拝です・・・・!
それに対し、上記トインビーさんの定義は、かなり広義に捉えていて分かりにくいですね。
この定義だと、神様の存在を認めていない人は偶像崇拝に陥りやすいとも言えそうです。
さらに神様を認めているとしても、旧約聖書に出てくるような「バアルの神」「アシラの神」のような崇拝は文句なしの偶像崇拝ですし、以下にも書いていますが、共産主義やファシズムのようなものも偶像崇拝と言えそうです。
どれほど多くの人間が偶像崇拝していることか!
キリスト教的に見れば、旧約聖書の創世記で神様と人間は(実際に言葉での会話かどうかはわかりませんが)、堕落前のエデンの園で一問一答できたとあります・・・・神様を信じるとか信じないというような話は不要でした。
神様が分らなくなったので、もっと分かりやすい代替物を持ってきたと考えると、偶像崇拝も人間堕落の結果と似たものと言えるかもません。
イエス様もマタイによる福音書22章37節で、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」と言われ、「これがいちばん大切な、第一のいましめ」としています。
「そうでないとみんな偶像崇拝に陥るよ!」と続けて言われそうです。
神様自身も、自分のことを「ねたむ神」と言っています。(出エジプト記 第20章)
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」
・・・・これは偶像崇拝を警戒してのこととも解釈できます。
「人間が集団的自己を崇拝することは偶像崇拝である」/15-p93
この発言はファシズムやナチスドイツを連想させるかも知れませんが、それだけでは済みません。
日本やアメリカなど普通の国もまた偶像崇拝していることを指摘し、その方が悪質だと・・・・
「高等宗教が世界に対するその支配力を失いつつあった世界に於いて、1952年には『イデオロギー』のなかに失われた高等宗教の身代わりを見出していた多くの人びとがいた。
そして幾つかの国では、この新しい世俗的信仰への改宗者が非常に勢力を得て政府の支配権を奪取し、国家の全権力を使って自分たちの教義と慣行を同胞に強制した。
こうした方法によって共産主義はロシアに、ファシズムはイタリアに、国家社会主義はドイツに打ち建てられた。
しかし、集団の力という甲冑を着けた自己に対する人間の昔からの崇拝の復活のこの甚だしい実例は、この精神的病幣の実際の普及の程度を示すものではなかった。
その最も重大な徴候は、その市民が自分たちは他の人々、もしくはこのファシストや共産主義者とさえ違っていると言って自ら悦に入っている、民主的であり、キリスト教的であると公言している国々において、人口の六分の五の宗教の五分の四は、蜂による蜂の巣の、そして蟻による蟻塚の崇拝という原始的異教信仰であったことである。
この復活した偶像崇拝は愛国心という美名のもとに隠されることによって救われなかった。
そして実にこの一般に知られていない偶像崇拝の影響力は、・・・・(中略)・・・・率直な形の偶像崇拝よりも悪質であった。
この集団的自己崇拝は立ちのいた高等宗教に取って代わろうとして押し寄せていたすべての下等宗教のうちの最も邪悪なものであった。」/15-p169
「汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。 そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。マタイ12/43
高等宗教というまともなもの(!)を追い出しましたが、いつまでも掃除された部屋をそのまま維持することは難しい・・・・この聖句は、人間は何らかの宗教なしには生きられないということかも知れません。
「西洋人の魂はいつまで宗教なしに生きてゆくことに堪えられるか。」3-p319
西欧人がキリスト教を捨て始めたのは・・・・
「17世紀の最後の20~30年は西欧でキリスト教の後退が始まった時期だった。この退潮は私たちの時代になってからも続き、それが食い止められる兆しが見えてきたのは、第二次世界大戦が終わってからのことである。
しかしこのようにヨーロッパ人の心に対するキリスト教の勢力が弱まったことは、必然的にその心を非キリスト教的な信仰の対象に向けることになった。これは・・・・当然起こるべきことであった。・・・・したがってこの三世紀の間にしだいにキリスト教から離れていった人々の心は、キリスト教の代わりを見つけてその方に向かわなければならなかった。
その結果見つけられたのがキリスト教以後の各種の思想だった。それらの中の三つの主要なものは国家主義、個人主義、および共産主義で、そしてこれらの三つの中では国家主義が最も強力に西欧人の心に結びついた。いずれにせよ国家主義は、他の思想がこれと対立する時には常にそれらに勝つ。」(現代が受けている挑戦p181)
非常に簡単に考えれば、国家主義は何よりも強いので、世界は国単位に分かれているということになるでしょうか。
「個人主義の国」とか「共産主義の国」という国家はありますが、それ以上の単位は無さそうです。
共産主義も、世界共産主義は破れて、スターリンの国家的な共産主義が残ったのは良く知られた話です。
世襲制の共産主義とかもどこかにあったような!・・・・ありなんでしょうか?
われわれ宗教を肯定する立場から見ると、広い意味では、共産主義も立派な宗教に見えます・・・・
「共産主義者は、共産主義が宗教であることを否認している。
かれらは、自分たちがいかなる種類の宗教もいっさい追放してしまったと主張し、共産主義が宗教に基礎をおくものでなくて科学に基礎をおくものであると主張し、そしてこのことから、その他の諸点と同様に、共産主義が、人間の歴史における新しい出発なのだと主張している。
しかし、本当は、共産主義は、たしかに宗教であり、正真正銘の宗教であり、しかも新しく見えるイデオロギー的よそおいにもかかわらず、むかしながらの宗教である。
共産主義は、ナショナリズムと同様に、集団的な人間の権力を崇拝する一つの現象である。」歴史の教訓P185
では民主主義は?・・・・上記の定義から判断すれば、「民主」・・・・人間が主人ですから似たようなものかも。
戦争の激化についても国家レベルの民主主義は悪い方にひと役かっています。・・・・民主主義が戦争という制度と奴隷制度にどう影響したかについてはこちらを参照
「歴史の研究」の縮刷版のほうが、より「率直」な表現で書かれています。
「奴隷制度と同じように、明白な害悪である戦争に対しては、なぜそれを一層悪化させるような影響を及ぼしたのであろうか。その答えは、民主主義が、戦争という制度にぶつかる前に、地方的主権という制度にぶつかった事実のうちに見いだされる。民主主義と産業主義という新しい推進力が、地方国家という古い機械の中に導入されたために、政治的ナショナリズムと経済的ナショナリズムという、ふたごの奇形児が生まれた。民主主義の高邁な精神が異質的な媒体を通過して、このように低俗的な形に変えられてしまったために、民主主義は戦争を阻止するはたらきをする代りに、かえって勢いをつけることになったのである。」1-p471
現存する民主主義はすべて腐敗した民主主義ということになるでしょうか?・・・・国家を超えられていませんから!
民主主義というのはウソで実体はナショナリズムと言った方が近い?
トインビーさんは民主主義を肯定するような文章も書かれていますが、本音は明らかに神様主義です。
・・・・と言っても、うちの先生の推奨する神主義とは別ですが。
こんな皮肉な感じの文章も・・・・
「現今では、民主主義といういう用語は、科学という用語と同様に、霊験あらたかな(カリスマチック)、または秘跡的な(サクラメンタル)用語であり、ともかくもお呪い的な用語である。
西洋化しつつある現代の我々の世界では、「デモクラシー」と「科学」とを信ぜず、したがってそれを実行しないといいきれるだけの自身のある社会はない。つまり、「非民主的」とか「非科学的」とか、あるいはもっと極端ないい方をすれば、「反民主的」とか「反科学的」だったと自認することは、文明というものの圏外にあったことを自認することになる。
デモクラシーと科学とに対する口先だけの忠誠を誓う共通的な傾向は、特筆にあたいする。」(歴史の教訓p132)
・・・・この傾向そのものが一種の偶像崇拝?
以下の文章は、これだけでは文脈が分かりにくいところもありますが、トインビーさんは「人間だけではダメ」と断定しています。
「プルタルコスはアレクサンドロスの言として、次のことばを伝えている・・・・『神はすべての人間の共通の父であるが、もっとも優れた人間に、特にわが子として目をかける。』
もしこの「ロギオン」(偉人の言ったと伝えられる言葉)が信頼すべきものであるとすれば、アレクサンドロスは、人間が兄弟であるためには、まず神が父であることが必須条件である、という真理を悟っていたことになる。
この真理は、人類家族の父としての神を度外視し、その代わりに、それだけで人類を統一する力をそなえた、全く人間的なきずなを作ろうとしても、それは到底不可能なことであるという逆の命題を含んでいる。
人類全体を抱擁することのできる唯一の社会は超人間的な『神の国』であって、人類を、しかも人類だけを抱擁する社会などというものは、全く実現性のない妄想である。」/11-p228
・・・・ずいぶんきっぱりと言っておられる・・・・やっぱり神様抜きは無理!
「民主主義は地方的ではなく普遍的であり、戦闘的ではなく人道的である。その本質は、生命それ自体の境界以外の境界を知らない友愛の精神である。
民主主義のための自然な行動の場は、全人類を包含する場である。そしてその精神力が恩恵的であるのは、この範囲に於いてなのである。しかしこの強力な精神的推力が地方国家という機構のなかへそらされるとき、それは恩恵的であることをやめるだけでなく、有害な破壊力になる。『最良なるものの腐敗は最悪である。』地方国家のなかに閉じ込められた民主主義は、ナショナリズムに堕するのである。」/7-p254
*ここでいう地方国家というのは、イギリスとかアメリカなど、普通の国家です。歴史を文明単位であつかう文明史観からみれば地方国家扱いになります。
以下、先生の講話より・・・・
人類の真の平和は、右翼でも実現できず、左翼でも実現できません。
その根本の理由は、右翼も左翼も、利己主義を解脱できないからです。
自分を中心とし、自国の利益を中心として進むときには、永遠になくなることのない利害の衝突ばかりが存在するのであって、統一もなく、平和もありません。
したがって、利己主義を打破する新しい世界主義が現れなければなりません。
自分より他のために生きる利他主義は、ただ神様の理想からのみ出てくることができます。
それは、神様が愛の本体であられ、愛の本質が自分を犠牲にして他を生かす利他主義だからです。
したがって、「神主義」の本質は愛であり、この思想は、人間の四肢五体を動かす頭のような中心思想です。
ですから、「頭翼思想」です。右腕も左腕も、実際、一つの体にぶら下がっています。
頭が無ければ、右腕と左腕は互いに赤の他人となって争いますが、頭が中心に定着していれば、右腕も左腕もすべて、頭の命令に従って、体全体のために働く、一つの共同体になるのです。
・・・・(中略)・・・・
二本の手があってこそ完全です。
一方の手だけではいけません。
目も二つ、腕も日本、脚も日本ですべてペアです。
道を歩くのを見れば、腕や脚が互いに反対に動きますが、それが正しいのです。
互いに反対ですが、それが正しいというのです。
ところが、何かをつかむときは、一緒に動きます。
反対になるのも良く、一つになるのも良いのです。
反対だからといって、すべて悪いのではありません。
両方とも良いのです。
(真の父母経ページ990)
私は、一生を通して共産主義と闘ってきた人です。
私は、共産主義者たちから何度も命を脅かされ、一触即発の危機から命を守ってきました。
しかし、私は、ある特定の共産主義指導者に反対したのでもなく、また社会主義に対して反対したのでもありませんでした。
私は、創造主であられる神様を否定する唯物論に立脚した共産主義哲学が、真理でないことを知った人です。
私は、神様の実存に対する徹底した体験と所信をもった者として、私たちの世界と人類が神様を求め、神様のみ前に帰らなければ、究極的に、人類は滅亡せざるを得ないと固く信じた人なのです。
そのような意味で、今日の自由主義世界、または資本主義世界が正しく進んでいるとは絶対に考えていません。
かえって物質万能の資本主義世界の中に、唯物論と無神論の澎湃が、過去の共産主義に劣らず、世界と人類の将来を脅かしていると考えています。
もし、宇宙の根本であられる神様がいらっしゃらないとすれば、この世の中に絶対価値の基準はあり得ません。
そうなれば、人間の道徳と倫理の基準が成立せず、その社会は、人間が万物の霊長となり得る何の哲学的根拠も持ちえないのです。(真の父母経854ページ)