中学校の頃だったか、ローマ帝国の最大領土は、ハドリアヌス帝(五賢帝の一人、在位117~138年)の頃と教わり、その時期が帝国の最盛期と思い込んでいました・・・・当時としては、なるほどと納得してもしかたないかも。
歴史の研究の第三部に「文明の成長」というのがあります。
そのなかで、「地理的拡大」や「技術の向上による自然環境征服の増大」が文明成長の指針となるかについて、いくつもの例を挙げながら検討します。
もしそのような尺度で成長や衰退が判断できれば、簡単でわかりやすく、とても便利です。
ところが、その結論は、
(A)地理的拡大
「衰退に付随して起る現象であり、ともに衰退と解体の段階に相当する動乱時代、もしくは世界国家と時期が一致する。」 1-p322
「・・・・ほとんどすべての文明の歴史が、質の低下と時間的に一致することを示す実例を提供する。」1-P325
「地理的拡大は社会的成長とは相関関係がなく、反対に社会的解体と相関関係がある」 /5-p207
「われわれは地理的拡大を社会的病弊と見做してさしつかえなさそうである。」/5-p225
(B)技術の向上による自然的環境征服の増大
「技術の進歩と文明の進歩との間に相関関係がないということは、文明が停滞の状態にあり、もしくは退歩した時期に技術の進歩した、以上すべての事例において明らかに看守される。」 1-p332
「技術の発達の歴史は、地理的拡大の歴史と同様、文明の成長を測る基準を提供することができない」 1-335
「軍事技術の進歩は必ずとは言えないまでも、概して文明衰退の兆候であると結論して差支えないであろう。」/5-p245
結果はどちらも否定的なもの・・・・というより、寧ろその反対でした。
トインビーさんは「挑戦と応戦」という考え方で、文明の成長を説明していますが、どのような挑戦と応戦が文明を成長させるのか?・・・・文明の発生・成長にとって最適な挑戦とはどのようなものかを検討し、以下のような結論を下しています。
「最も大きな刺激を与える挑戦は、きびしさの過剰ときびしさの不足との中間の度合いの挑戦であることを発見した。不十分な挑戦は挑戦された人間を全然刺激しないだろうし、反対に過度の挑戦はすっかり士気を挫いてしまうおそれがあるからである。」1-p318
・・・・この表現だけでは、あまりにも曖昧で当たり前・・・・「そりゃあそうだわ!」で終わってしまいます。「歴史の研究」を出版し始めた当時は、文明が発生・成長した地域とそうでなかった地域の違いについて、今から考えると「あほらしー!」と思えるような説もあったようで、「広頭種族」とか「長頭種族」などという言葉も登場します。
これらを論破しながら、それぞれの文明を細かく分析しながらの結論が上記のものです。
「逆境の効能」、「困難な地域の刺激」、「新しい土地の刺激」、「打撃の刺激」、「圧力の刺激」、「迫害の刺激」というような見出しもあって、それぞれ丁寧に例を出しながら検証を進めます。
では、「被挑戦者がかろうじて対抗しうる程度の挑戦はどうか?」1-p318・・・・離れわざを呼び起こす傾向があるが、発育停止をもたらすことにもなる・・・・例えば、エスキモーとか古代ギリシアのスパルタ、オットマン帝国の軍隊(イェニチェリ)など。応戦はしたのですがそのまま固まってしまい、「発育停止文明」と言われます。・・・・時々、人間の中にも見かけるような!
その結果、見つけ出した最適の挑戦・・・・
「真の最適の挑戦とは、被挑戦者を、ただ一度の応戦に成功するだけでなく、さらに一歩前進するはずみがつくように刺激する挑戦、一つの事業の完成からまた新たな努力へ、一つの問題の解決から他の問題の提起へ、陰からふたたび陽へと前進するように刺激する挑戦である。」1-p319,/5-p179
その例も幾つか挙げられていますが、ここでは2つだけ・・・・
1.封建制度の例
「西欧人の祖先がスカンジナビア人の襲撃を撃退することに成功したさい、かれらがこの人間的環境に対する勝利をかち得た手段の一つは、封建制度という強力な軍事的・社会的道具を作り上げることによってであった。ところが、西欧社会の歴史の次の段階では、封建制度の結果生じた階級間の社会的・経済的・政治的分化がさまざまな軋轢をひき起こし、今度はこの軋轢が成長期の西欧社会の当面した次の挑戦を生み出した。西欧キリスト教世界はヴァイキング撃退のための努力からほとんど休みひまなく、次の、階級間の諸関係から成る封建制度の代わりに、主権国家とその個々の市民との間の諸関係から成る新しい制度を確立するという問題の解決に当たらねばならなかった。この、あいついで起こった二つの挑戦の例において、外的領域から内的領域への行動範囲の移動が明らかに看守される。/5-p284
2.ヘレニック文明の成長・挫折の例・・・・古代ギリシア成長のための三度の試練(挑戦)
さらに、成長についての以下のような結論
「われわれは、相次いで現れる挑戦に対する一連の応戦が成功をおさめる場合、挑戦-応戦の連続が進行するに連れて、行動の領域が、自然的環境と人間的環境の別を問わず、しだいに外的環境から、成長しつつある個人もしくは文明の内面に移行して行けば、それを成長の表れと解してよい、と結論する。
個人もしくは文明が成長し、かつ成長し続ける限り、外的な勢力によって与えられ、外的な領域における応戦を要求する挑戦を考慮におく必要はしだいに減少してゆき、内的領域において、みずからがみずからに対して加える挑戦を考慮におく必要がますます増大してゆく。
成長とは成長する個人もしくは文明が、しだいにみずからの環境、みずからの挑戦者、みずからの行動領域になってなってゆくことを意味する。
言いかえれば、成長の基準は自己決定の方向への進歩である。そして、自己決定の方向への進歩とは、生命が生命の王国にいたる奇跡を言い表す、散文的な表現である。」 1-p350
成長とは成長する個人もしくは文明が、しだいにみずからの環境、みずからの挑戦者、みずからの行動領域になってなってゆくことを意味する。
言いかえれば、成長の基準は自己決定の方向への進歩である。そして、自己決定の方向への進歩とは、生命が生命の王国にいたる奇跡を言い表す、散文的な表現である。」 1-p350
ついでに完訳版の該当箇所も挙げますと・・・・
「われわれは、挑戦と応戦が進行するにつれて、活動が外的環境・・・・自然的、人間的のいずれであるかを問わない・・・・から成長する人格或いは成長する文明の内部に転移するならば、連続する挑戦に対する一連の成功した応戦は、成長の現れであると解釈する見解を支持することができるであろう。これが成長し、成長し続ける限り、それは外部の敵によって与えられ、外部の戦場に於て応戦を要求する挑戦をますます考慮に入れることが少なくなり、それ自身によってその内部に提出される挑戦をますます重く見るようになる。言い換えれば、成長の基準は自己決定への前進である。そして自己決定への前進とは、それによって生命がその王国に入る奇蹟を説明する散文的な図式である。」/5-p311
「活動分野の転移」という部分では、以下の説明も。 /5-p278
「挑戦は外部から入ってくるのではなくて、内部から発生するのであり、そして挑戦に対する応戦の勝利は外部的障害の克服、或いは外部的な敵に対する征服という形をとらないで、内面的自己表現もしくは自己決定のうちに現れるのである。われわれが継起する挑戦に対して個人または社会が次々に応戦するのを観察して、挑戦に対する特定の一連の応戦を成長の現れとして解釈すべきであるかどうかを考察する時、この一連の挑戦と応戦を通じて、活動が前述の二つの分野の第一のものから第二のものに転移する傾向があるかどうかを観察することによって、われわれの疑問に対する解答に到達するであろう。この傾向があるかないかが、成長があるかないかの基準になるのである。そして、問題になるものは常に傾向であるということを付言しておく必要があろう。何故ならば、われわれが厳密に検討する時、これらの二つの分野の一つに於てのみ挑戦と応戦がおこなわれる実例を上げることは不可能であることが判るからである。一見したところ、外的環境の征服であるとしか思われないような応戦に於てさえ、内面的自己決定の要素が常に看守されるのである。また反対に活動の舞台の内面的分野への転移が極度に進んだ時でさえ、外面的分野に必ず何らかの活動の残滓があるのである。/5-p279
なるほど、成長についてはわかりましたが、素朴な疑問が残ります。
それで・・・・挑戦と応戦はいつまでやればいいんでしょう?
以下は「神の国をつくる」にも載せた文章ですが、
「人間は神と交わっていない時には、その本来の社会性と衝突する不和に陥るだけではない。
人間はまた社会的被造物であることに内在する悲劇的な難題によってさいなまれる。
そしてそれ故その難題は、人間が唯一の真の神が構成員として加わっていない社会で自分の役割を演じようとする限り、人間の社会性の道義的要請に近づくことに成功すればするほど、より尖鋭な形で現れる。
この難題とは、人間が自分自身を完成する社会的行動は、地上における個人の生活の限界を、時間的にも空間的にも、はるかに越えるということである。」/15-p229
早い話、「神様ぬきでは無理だよ」と言っています。確かに上記例2つを見るだけでも、より尖鋭な形で現れてくるようです。
トインビーさんは、「神様と仲よくすればできるよ!」と言っているようです・・・・神様ってどれぐらいすごいんでしょう(!)
「意志の調和があり得る唯一つの社会は、二人もしくは三人---もしくは二十億人、三十億人---が神の名に於いて神を中心に集まっている社会である。
神が造った人間ならびに唯一の真の神を包含する社会に於いて、神は無類の役割を演じる。
神は各人間構成員と神自身との関係の一方の当事者である。
しかし、このために神はまた各人間構成員と他のすべての人間構成員との関係の当事者でもある。
そして人間の魂に神自身の聖なる愛を吹き込むこの神の参加を通して、人間の意志は和解することができるのである」/15-p226
「唯一の道徳的に耐えることのできる行動領域は『神の国』である。
そして、地上に於けるこの『神の国』の市民となる機会が、高等宗教によって人間の魂に提供されている」2-p494
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