2024年1月30日火曜日

ペロポネソス戦争

 アテネとスパルタ・・・・古代ギリシャの代表的な都市国家(ポリス)ですが、都市国家の数としては、大小合わせて200くらいあったようです。その中でも大きかったのがこの2つ。
新約聖書では、ほかにコリントが有名ですね。

スパルタは「スパルタ教育」の語源にもなっている通り、非常に規律の厳しい国で、最近の世界で言うとソビエト連邦、対するアテネは民主主義が発達し、自由度の高いアメリカ合衆国を思わせます。

ペロポネソス戦争は、古代ギリシャのアテネとスパルタ間の対立から起きた戦争で、前431年から前404年まで続きました。当時としては前代未聞の大戦争で、現代で言えば世界大戦規模です。
単に二国間ではなく、アテネはデロス同盟、スパルタはペロポネソス同盟の盟主だったので、多くのポリス(都市国家)が加わっています。さらにはペルシャまで。
この間、アテネでは疫病も流行し、市民の1/3が亡くなったとも言われています。
結果はスパルタの勝利で終わりますが、この地方全体が疲弊してしまいました。

トゥキュディデスがこの戦争を記録していますが、その冒頭部分も引用しますと、
「アテーナイの人トゥーキュディデースはペロポネーソス人とアテーナイ人との戦いの模様を収録した。両者が戦火を交えると、この戦いが拡大することとそれが過去を通じ最も語るに値するものになることを予測して、ただちに稿を起した。つまり両者が備えのすべての面でその頂点に達して戦いに入った上に、他のヘラス諸都市も両陣営に、ある都市はただちに加わり、他の都市はそれを目ろんでいるのを見て判断したからである。つまりこの事変は実にヘラスと異語族国の一部をも含む、いわば殆どの人々の上にもたらされた最も規模の大きな事変であった。」
*ヘラスとはギリシャ人がギリシャを指して呼ぶ名前
(筑摩書房 世界古典文学全集第11巻 小西晴雄訳 ・・・・本のタイトルは単に「歴史」となっています)

トゥキュディデス自身も元はアテネの将軍でしたが、戦いに負けて追放されてしまいました。トゥキュディデスが青年の頃、この戦争が起こり、その全期間を通じて生きていたとのことで、この戦争を記録しました。(完結してはいない)
このブログでも、「ヤコブ路程・・・・引退と復帰」というところで、トゥキュディデスの名前を挙げていますが、トインビーさんの「歴史の研究」には、軍人として引退し、歴史家として復帰した例として3ページを割いて記述があります。

聖書の歴史展開にも書きましたが、この2国のうち、スパルタを兄、アテネを弟と見立ててカインとアベルに重ね合わせると、非常に興味深く感じられました。

戦争に突入してスパルタが勝利したということは、カインがアベルを殺害してしまった状態で、最終的には失敗の歴史ですが、さらに遡ってこの地域の歴史を調べてみると、食糧問題などでアテネが中心になって厳しい試練を潜り抜けて来たこともわかります。・・・・原理用語で言えば信仰基台は既に立てていたと解釈できそうです!

紀元前8世紀ごろ、ポリス(都市国家)が作られるようになりました。この辺りは土地が痩せていて、農作物が豊富に収穫できるようなところではなく、人口の増加に伴なって食糧供給が難しくなってきました。
そこであるポリスは、イタリアやトラキアやその他海外に農業用の領地を獲得して対処しました。
スパルタはどうかというと、武力では最強国家でしたので、近隣の諸国を攻撃・征服して領土を拡げることにより対処しましたが、執拗に戦争を繰り返すことになり、成果は少なかったようです。
アテネは素晴らしい方法で、この試練を解決しました。輸出を目当てに農作物を栽培し始めたのです。手工業などにもこの方法を応用しました。

トインビーさんの言を借りれば、
「他の諸国が求めた解決の道はすでに閉ざされていたので、アテナイは独創的な解決方法を発見した・・・・すなわち、農業生産物を輸出向きに専門化し、輸出を目的とする製造工業を開始し、さらに、これらの経済革新によって勃興した新興階級にかなりの政治的発言力を与えるような政治制度を発展させた。言いかえれば、アテナイの政治家たちは、経済的政治的変革を首尾よく断行することによって、社会革命を回避したのであった。そして彼らは彼らにふりかかったこの共通の問題に対する解決法を発見することによって、付随的に全ヘレニック社会の前進のための、新しい大道を切り開いた。」/1-p40

食糧問題以外でも、この後に起こったアケメネス朝ペルシャとの戦いでも、この貿易で発展させた得意の海軍力を使って、アテネはスパルタを出し抜いているように見えます・・・・ただ、その後は逆にこれらの実績のせいで傲慢になっていたところもあったようです。(例えば、このブログの「創造性のネメシス」参照)

実際には、大戦によってこの地方は衰退してしまいましたが、もしも(!)・・・・この戦争を回避してアテネとスパルタが(ヤコブとエソウのように)仲良し兄弟になったと考え・・・・(そんな簡単ではありませんが、考えるだけなら自由です)・・・・メシヤを、迎える基盤が作られたとします。
メシヤを迎える準備が始まって、仲良し兄弟成立後(実際には戦争勃発後)400年が過ぎれば、AD31年です。
この時イエス様は35歳前後でしょう(イエス様の誕生をBC5年頃として)
イエス様が十字架にかからずにユダヤ民族をまとめ、ギリシャ地方がイエス様を受け入れていたら、その後の歴史は全く別の方向に進んだことでしょう。

また、ギリシャ地方のお隣にはローマ帝国があります・・・・まだ出来立てです。
それ以前にも共和政ローマがありましたが、オクタビアヌスが初代皇帝となったのはBC27年です。
また、オクタビアヌスの義理のお父さんがジュリアスシーザーです。この方は紀元前50年位に活躍され、北方民族(ガリア地方)を平らげてくれています・・・・これも「準備」だったでしょう。

同じようなことはアレキサンダー大王についても言えるかも。この方は、イエス様が西へ向かっても東へ向かってもいいいように、べらぼうに広い範囲を平らげて下さいましたし、邪魔なペルシャもいなくなりました。


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