2023年1月4日水曜日

洗礼ヨハネの不信

 一般の聖書解釈と原理の大きな相違点の一つが、洗礼ヨハネに対する評価です。

一般の聖書解釈では、洗礼ヨハネはイエス様をメシヤと証した立派な人物となっていますが、原理ではイエス様の行く道を遮った最も大きなつまづきの石と解釈しています。

一旦は証したのですが、その後、不信に陥ったというのです。

証した聖句は分かりやすいですね
「わたしはその人のくつのひもを解くにも値しない」とか、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とか、「このかたこそ神の子である」(ヨハネ1/29付近)・・・・など、イエス様を讃えています。

一方、不信した聖句は
1.「彼(イエス様)は必ず栄え、わたしは衰える」(ヨハネ3/30)
2.「『きたるべきかた』はあなたですか。それとも、ほかの誰かを待つべきでしょうか」

1については、もし行動を共にしていたらこういう言い方はしないだろうというのです。
出生時には洗礼ヨハネの父親(祭司ザカリヤ)が、
「生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださる」と預言しています。(ルカ1/75)
本当にイエス様に侍るなら、こうは言わないし、一緒にいて一番弟子になるでしょう。

2について、
洗礼ヨハネは一旦証したのですが、その後イエス様がメシヤであるという確信をなくしてしまい、弟子を遣わして確認させています。
イエス様は「そうだ!」とは言わずに、少し遠回りして応えました。
イエス様の回答は
「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。盲人は見、足なえは歩み、らい病人は清まり、耳しいは聞こえ、死人はよみがえり、貧者は福音を聞く。わたしにつまずかない者は、さいわいである」(マタイ11/4付近)

さらに、洗礼ヨハネがつまづきの石になったのは、自分自身が何者かわからなかったためです。
人々が洗礼ヨハネに「あなたはどなた?」と質問したのに対して、
「わたしはキリストではない」と言い、エリヤでもない、預言者でもないと言っています。
そしてわけの分からないことを言いました・・・・「主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声」だとか(ヨハネ1/20)

では、イエス様はなんと言ったか、
「この人こそは、きたるべきエリヤなのである。」(マタイ11/14)

当時の洗礼ヨハネは有名人で、出生当時から奇跡が起きて国中に知れ渡っていましたし、メシヤではないかと間違えられる程の人物。

対するイエス様は、名もない大工の息子。しかも安息日は破り、神殿の屋台を覆し、取税人と遊女がお友達!

どちらが信用されるかは決まったようなものです。
先に来るはずのエリヤがまだ来ていないのに、何故メシヤが来るのかという疑問も当然です。

神様もひとこと「あんたがエリヤだよ!」と言ってくれればいいのに、自分で悟れというのは難しいかも知れませんし、それを人前で発表するのは勇気もいるでしょう。
先生の講話から探せば、「エリヤとしての自覚性」ということでしょうか。
原理講論では、洗礼ヨハネが不信するようになったのは獄に入ってからとなっています。
簡単に言えば、ぼけちゃったのです。・・・・と言っても、ボケ老人などと言う場合の「ぼけ」ではなく、考え方が世俗的になったということのようです。

ちなみに、イエス様の言われたこの聖句・・・・
「女の産んだ者の中で、洗礼ヨハネ以上の者は現れなかった。しかし、天国で最小の者も、彼以上である。」マタイ11:11

これについても回りくどい解釈をしているようですが、原理の解釈はストレートです。
最も近しくイエス様を証すはずの人が不信してしまったので、最も小さい人になったのです。

つまらない怨みから投獄され、ヘロデ王に首を切られて死ぬなら、イエス様と共に行動し、となりで十字架についた方がずっと良かったのでは?・・・・いや、洗礼ヨハネがイエス様と一緒に行動したら別の道があったかも!

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