(途中に「(iyo)」と記して文章を続けているのは、私のコメントです)
「一歴史家の宗教観」では、著者は宗教的な言葉を意識的に避けているようで、例えばこんな言葉を使用しています。
1.新しい福音
2.実在 または 絶対的実在
3.受難のしもべ
これはキリスト教での、1.新約聖書、2.神様、3.イエス様のことと思って良さそうです。(厳密ではありません)
ところで、「第六章 高等宗教の出現」という見出しがあり、以下のようにはじまります。
「人間崇拝のどの形体にもすべて、それが間違っているというばかりでなく、さらに罪でもあるような二つの誤りが含まれている。その一つは・・・・」
(iyo )このひとつめは省略して次の方に焦点をしぼります・・・・
「いま一つの誤りは、人間の力・・・・それが集団的、物質的なものであれ、個人的、精神的なものであれ・・・・を崇拝することなのであるが、これが誤りであるわけは、人間の力を崇拝するものは、これによって、苦悩に対する正しい態度を見出すことができなくなるからなのである。」(一歴史家の宗教観p120)
「人間崇拝は、苦悩が生の真髄をなすというあの真理を認めようとせず、またこれに基づいて行為することを拒否するものである」(同p166)
(iyo )「苦悩に対する正しい態度」とはどんな?・・・・新約聖書が何を教えているかについて。
「新しい福音は、絶対的実在が人間でも自然でもなく、これら両者をともに超越したものだという一つの信念のうえに築かれている。
それは苦悩が生の真髄を成すという真理を認め、苦悩を除こうとすることなく、かえってこれを利用して、人間のものであるとともに神のものと信ずるところの憐みと愛の感情にもとづいて行為するための一つの機縁としようとするものである。」(同p166)
(iyo )要するに、苦悩とお友達になりましょうということでしょうか。
続けて、
「それはまた、このような行為の道が、生の本質と目的とを、自己主張以上に真実に、したがってまたより創造的に、表現するものだということを信じている。
愛の導きに従えば、人間は苦悩に身をさらすことになるであろう。なぜならそれは、自己中心の流れに逆らって泳ぐことになるからである。
しかしこの新しい福音が人間に教えていることは、人間が愛のために苦悩に身をさらしても、それは宇宙の主流に逆らっているのではなく、これとともに泳いでいることになるということであるが、それはあの真なる神をその一面としてもつ一つの絶対的実在が、宇宙を創造し維持している一つの力であるばかりでなく、自己犠牲によってみずからを表現する一つの愛でもあるからである。
神は宇宙の中心なのであるが、それは他を撃退するゆえにこそみずからも挫折することになるような一種の自己中心的な自己主張をしているためでなく、それに応答する愛と自己犠牲とを神の被造物のなかに喚起するような一種の自己犠牲によってそうなのである。」 (同p166)
「人間がこのように回心すれば、元来回心前の人間が、なんらかの力を・・・・集団的、物質的な力にせよ、個人的、精神的な力にせよ・・・・獲得し行使することによって、みずから苦悩を回避せんとする努力を払うものであるのに対し、このような努力を放棄するばかりか、かえってこれと反対に、すすんでわが身に苦悩をうけ、おなじ衆生に対する愛と憐みの情にもとづく行動をじぶんの苦悩とかけがえにおこなうことによりこれを積極的に生かしてゆく道を採択するようになるのである。
人間は、この心情の変化によって、神の新しい姿に対し眼がひらかれることになる。人間はこれにより、ちからであるとともに、愛である神の姿をかいま見ることができるのであるが、・・・・」(同p121)
(iyo )
苦悩に対する正しい態度 ←→ 堕落人間には難しいのですが、本然の人間は上手に付き合って行ける(?)
これによって神様を見ることができる?・・・・神様って、やっぱりこころの奥で見るものなんですね。
これが、トインビーさん流の「回心のメカニズム」とも言える内容になるのでしょうか!
(iyo )
いかに「苦悩」とお友達になってうまく、仲よく付き合ってゆくか。・・・・これが上手にできるのが本然の人間かも!
堕落人間と本然の人間の血統の違いは、こういうところに現れてくるのでしょうか。
堕落人間と本然の人間の血統の違いは、こういうところに現れてくるのでしょうか。
先生の講和にも、こんな示唆的な言葉があります・・・・
「サタンは傲慢なので、困難な所を嫌います」(真の父母経827ページ)
ここで言っているサタンとは堕落人間全てと受け取ることもできます。
そこいらのオッサンでもこんなことばを頻繁に発します。
「苦労しろ!」、「若いときの苦労は買ってでもしろ」、「おめえは苦労が足りねえよ!」
「苦労」と「苦悩」は違いますし、苦しさから見て、苦悩は苦労の何倍も上で次元が違うとも言えますが、堕落人間がオススメできる限度は「苦労」まで?
「愛には犠牲が伴なっている」(先生の講和より・・・・出所不明。いたるところにあり)
(iyo )
他の場所では「回心の奇跡」とも言っています。「奇跡」というからには、堕落世界ではめったに起こらないような稀な出来事ということでしょう。
これは・・・・もちろんとことん追い詰められたような状態においてのことでしょうが・・・・必ず起きると言えるでしょうか。こんなふうに公式化できるものでしょうか?
そういえば、原理によればイエス様は別に特別な方ではなく、本来あるべき普通の人間となっていましたし、だれでもその素質は持っている(?)
本然の世界においては誰でも日常茶飯事のこととして経験するとか!・・・・100年足らずの間に、神様の指示されたとおり地上生活の目的を達成するのは忙しいでしょうから。
(iyo )ここでいう「苦悩」という言葉は、かなり広い意味で受け止めておく必要があるかもしれませんね。
「人間生活においては、苦悩は力の対照をなすものであり、しかもそれは力以上に特徴的な、また根元的な生の要素でもあるのである。
われわれがすでに見てきたように、苦悩は生の本質をなすものなのであるが、それはこの苦悩が、生あるものにそなわったみずからの宇宙の中心たらんとする衝動と、それが本来他の万物に依存するのみならず、すべてが『そのうちに生き、動き、またある』ところの絶対的実在にも依存しているという事実とのあいだに存在する一つの解きがたい緊張から必然的に生み出されてくるものだからである。」
(一歴史家の宗教観p120)
以上、トインビーさん流の解釈に、私の独断と偏見を追加してみました。
「歴史の研究」の大きなテーマは、著者本人も言われていますが、「挑戦と応戦」です。
苦悩がおいしいケーキとかビフテキに思えるようになれば一人前とか!