キリスト教の十字架、救い、再臨など、ネットで検索してみても多くの解釈があり、納得できないものも沢山溢れていますが、私が教わった内容は非常にシンプルです。
1.神様はエデンの園で最初の人間を創造したが、その後の成長過程で失敗(堕落)があった。
2.その失敗を取戻すためにイエス様が来られたが、(十字架上で亡くなられたので)完全には取戻せなかった。
3.完全に取戻すために再臨がある。
1.神様はエデンの園で最初の人間を創造したが、その後の成長過程で失敗(堕落)があった。
2.その失敗を取戻すためにイエス様が来られたが、(十字架上で亡くなられたので)完全には取戻せなかった。
3.完全に取戻すために再臨がある。
上記1では、神様が失敗したというよりは、アダムとエバが失敗しました。
2では、イエス様が失敗したというよりは、周辺のユダヤ人達などが失敗しました。
3でもう一度トライするわけですが、一方で堕落世界はどんどん拡大してきました。そのため、本来の世界を取り戻すにも、その規模を凌駕する必要があり、困難さは当初の段階よりもはるかに大きくなりました。
「失敗」などという文字を書き込むと、一般のキリスト教徒からは、「神を冒瀆している」と非難されそうですが、いくら指導者が優秀でも、それだけで全てが完成するわけには行かないようです。
例えば、神様の事情については こちら に少し書いています。
イエス様の言行に対しては、当時のユダヤ人達が自分たちの都合で判断した面もあるようですが、乱暴者とか法を破るものと見える点があったのも事実です。
例えば、マタイ21/12付近では、
イエス様が宮に入られ、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をひっくり返したことが書かれています。
そして言われました・・・・「わたしの家は祈りの家なのに、あなたがたは強盗の巣にしている」と。
話が横道にそれてしまいました。元に戻して・・・・
旧約聖書には堕落以後、イエス様が誕生される約500年前までの記録があります。
・・・・ということは、聖書の年数カウントによれば約3500年間の記録です(実年数かどうかは???)
人類始祖から始まって、民族を形成し、国が創られ、神殿も出来ましたが、その後もいろいろひどい目に出会って、殆ど滅亡状態になりました。
バビロンで捕虜になっていたところを、ペルシャのクロス大王に救われ、故郷に戻って神殿を建て直しました。
どうしてこんなもんが世界中で読まれているのでしょうか?・・・・考えてみれば不思議ですが、これは堕落による失敗を元に戻そうとする記録で、具体的にはイエス様を誕生させようとする記録です。
誕生まで4000年もかかりました。
人間の時間感覚からすると、神様はかなり気長な方にも思われますが、私が教わったのはそういうことではありませんでした。
実は神様は、堕落後すぐに元に戻そうとする(つまり堕落前の状態に戻そうとする)努力を始めました。
ところで、堕落事件の次に出てくるのが、息子たちの物語です。
アダム家庭には、カイン(兄)とアベル(弟)が生まれましたが、カインがアベルを殺害するという、とんでもない事件が発生しました。
実はこれも元に戻そうとする試みだったのですが、さらに失敗を積み重ねる結果となってしまったのです。
人類の始まりで起こったこれらの事件は神様にとっても想定外だったかも!
「これこれこういうわけで・・・・」と書いてあればいいのですが、聖書は淡々と書かれているので、どこが重要ポイントなのか分かりにくい。
神様はアベルの供え物は受け取られたのに、カインの供え物は受け取られなかったとのこと。
まるで神様がエコヒイキしたのが原因で、カインが腹を立てて殺人を犯したようにも捉えられます。
ところで、兄弟の争いについては、その後にも聖書に書かれています。
この争いを成功裏にまとめ、失敗を取り戻したのがヤコブ(アブラハムの孫)です。
双子のエソウ(兄)とヤコブ(弟)にも同じような状況が生まれてしまい、やはりエソウはヤコブを殺そうとします。
しかし、この二人の場合は仲直りをして、ヤコブはイスラエル(勝利者)という名前をもらいました。
仲直りするまでに、21年もかかっています。
その後、家庭的な段階は終了し、ヤコブの子孫はイスラエルの12部族となり民族を形成するようになります。
これが聖書の1つの公式でしょうか?
「神様は、兄弟どうしを喧嘩させて、仲なおりしたら勝利者として認定する!」・・・・奇妙な公式ですね!
しかし・・・・さらにその後にも、ペレヅとゼラという双子の兄弟も出てきます。
この時は、既に胎中から争っていました。
あっさりした書き方の聖書に、兄弟の争いが3度も出てくるのは何か訳ありでしょうか?
歴史は兄弟関係によって発展するとか?
どこかで言われているような労働者と資本家の争いではないのでしょうか?
これらの兄弟間の事件で、共通して言えることは、いつも弟が兄を出し抜いていることです。
カインとアベルでは供え物の件でアベルが優遇されました。
エソウとヤコブの場合も既に胎内で争っていて、出産時には、先に出てきたエソウのかかとをつかんで弟ヤコブが出てきましたし、その後ヤコブは兄を出し抜いて祝福を受けています。
ゼラとペレヅの場合も、先に兄として手を出したゼラが一旦引き戻されて、弟のペレヅが先に胎を出ます。
神様は弟を愛し、兄を憎まれる!・・・・これが神様の好み?
ここで原理講論から該当箇所を抜き出しますと、
「カインとアベルを、各々異なる二つの表示的立場に立てるよりほかに摂理のしようがなかった」とのこと。
・・・・神様もどうしたらよいか必至に考えた結果のようです。
「二つの表示的立場」というのは、神(善)とサタン(悪)のこと。
本当は堕落直後のアダムに対して、なんらかの処方箋を準備したかったのですが、アダムは堕落の結果、サタンも「これはおれの息子だ!」と言える立場に立っていたため、神様はアダムのことは置いといて、カインとアベルの代から具体的に対処し始めました。
(なぜいつも弟が兄を出し抜く立場にいるか・・・・ここでは省略!)
要するに、アベルを神側の立場、カインをサタン側の立場に立てるのです・・・・かと言って、アベルは善人でカインは悪人というのではなく、あくまでもそのように見立てるということのようです。
ここまでのことは、おもに家庭レベルのスケールですが、拡大してもこのパターンで歴史が動いて行くというのです。
北イスラエルと南ユダとか、民主と共産とか・・・・こういうのは、一人の人間の心の中にもあって、長く人間をやっていると、その影響が出てきます。
ちなみに、神様がアブラハムに供え物(牛、山羊、羊、鳩)をするよう命じられたとき、全て二つに裂かなければならなかったのに、鳩だけは裂かなかったと、わざわざ書かれています。
牛や羊を裂くのは大変だったでしょう。動かすだけでもひと苦労です。
「鳩ぐらい許してくださいよ神様!」と私ならお願いしたいところです・・・・アブラハムも詰めが甘かったんですかね。
これが失敗となって、再度・・・・今度は自分の息子を捧げよ、との大変な命令を受けてしまいました。(創世記15章、22章付近)