2026年6月26日金曜日

堕落性本性・性善説・性悪説 

 アーノルド・トインビー氏と池田大作氏の対談で、「二十一世紀への対話」というのがあります。

私の持っているものは、上・中・下巻に分かれています。
聖教ワイド文庫  著者:池田大作、A・トインビー
(中)発行日 2003/01/26   第10刷 2022/04/20
(下)発行日 2003/02/16   第8刷  2022/04/20
発行所 聖教新聞社

ここで、「性善説・性悪説」(P154 (下) 第三章 善悪と倫理的実践)より、池田大作氏の言・・・・
「キリスト教では『原罪説』を説きますが、これは性悪説に近い考え方だといえましょう。」

これをみると、池田氏は堕落後の人間をみて、人間の本性としているように見えます。
これを受けてトインビー氏も
「人間の本性とは、私も元来、本質的に善とか悪とか割り切れるものではないと思っています。人間性は善にも悪にもなりうるものです。」とのこと。

ここでのお二人の会話は、現状の人間(堕落人間)を見てのことのようです・・・・でなければ、この対談の都合上、人間の欠点を如何に克服するかというのが課題の一つでしょうから、会話を進めるためにもその必要があるかもしれません。

「人間の本性」ってどの時点での状態なのか・・・・堕落前 or 堕落後?・・・・別にこだわる必要も無いし、その時の話の都合で決めてもいいと思うのですが、私の場合、異端とはいえキリスト教なので、堕落以前のことと解釈しています。
では堕落するよりも前の人間とは具体的にどういうものかと訊かれると、これもよくわかりません。過去に出会ったかたの中には、「人間は本来、空も飛べるんだ!」とか言っていた人もいました。

従来のクリスチャンたちは、「堕落」という問題をどう捉えているのか、あらためて疑問を持ちました。
クリスチャンの間でも実はあまり深刻に受けとめられていないのではないか?
教派ごとの論争には一生懸命でも、堕落の結果として起こったことに対しては、案外無頓着?
堕落という旧約聖書に書かれた出来事を、「じつはそれでよかったのだ」という方もおられるようです。
要するに「何もわかっとらん!」というのが真相かも。

創世記第三章には堕落のいきさつが書かれていますが、聖書の記述はあまりに淡々としていて、どのくらいの悲しみやショックがあったかはわかりにくいでしょう。

以下の文章は「堕落で血統が変わった」というところにも掲載しています・・・・
「堕落とは血統が変わったことです。家庭がなくなってしまい、国がなくなってしまいました。
・・・・(中略)・・・・
サタンの血統が入ってきて、心臓から動脈、静脈がサタンの血によって動き、すべての細胞が使えなくなったのです。血統がめちゃくちゃになったので、実体世界の歴史を知らない無知に陥り、悲惨になったのです。
エバは自分を中心として自覚をもちました。未完成の圏内で、自分を中心として自覚して対処し、天宙をひっくり返して打ち込んでしまったため、その自覚を新たにしなければならないのです。」(天聖経420ページ)

先生のこの言葉から考えると、うちのグループでは堕落を非常に深刻に捉えているということは間違いないでしょう。
「堕落とは血統が変わったことです。」・・・・どうしてこういうことが言えるのでしょうか?
ズバリとこう言えるというのは凄いことですね。

「人間は、神様の創造理想を実現したのではなく、理想世界を見つめて進む途中で堕落することにより、故障した存在になりました。そのため、人間は自分がどこに向かい、どのような主人に従って、どのような世界に行くべきかが分からず、右往左往しながら生きています。これが現世の人類社会です。」(真の父母経1245ページ)

以下の文章も、既に別のところに掲載しています・・・・
「最後の心情世界を連結させることができる宗教とは、神様が一番かわいそうだということを詳細に教えてくれる宗教
です。今日まで神様は、素晴らしくて偉大だとばかり言われてきたのですが、そうではありません。かわいそうで、無念な神様、悔しくて恨があふれる神様です。ですから、これを詳細に教えてくれる宗教が出てこなければなりません。悲しみの神様を知らなければ、解放してくれる神様、審判する神様(という本当の意味)も分からないのです。
 それゆえ、歴史的な神様の心情に通ずる宗教が出てきてこそ、歴史的な宗教の使命を果たすのであり、時代的な神様の心情を教えてくれる宗教が出てきてこそ、時代的な宗教の使命を果たせるのです。」(真の父母経1256ページ)

人間の場合でも、幼い頃の自分の実の子に悲しい顔を見せる親はまれでしょう。そのような時でも、我が子にはニコニコ顔をつくって対そうとしますから、子どもがそれを察して、親の悲しい気持ちを理解するというのは、とても難しいことです。

ところで統一原理には、「堕落性本性」という言葉があります。
原理講論では、
「創造本性から誘発されるところの、不可避的な副産物であり、それはちょうど、光によって生ずる、物体の影のようなものである・・・・しかし、人間が完成すれば、このような付随的な欲望によっては決して堕落することはできなくなる」 とあります。

人間が堕落せずに完成していたならば、問題なくコントロールできたはずなのに、成長の途中(未完成の段階)で堕落したために、そういう感情の操縦が未熟で、逆に振り回されるようになった・・・・というようなことでしょうか。
人によっては「堕落」ということを、即男女問題と捉えているかたもおられるようですが、そう単純ではなさそうです。

堕落性本性を大別すれば、四つに分類できる(原理講論)とのこと。
1.神と同じ立場に立てない
2.自己の位置を離れる
3.主管性を転倒する
4.犯罪行為を繁殖する

因みに、1については何のことやら分からないので、ひとこと追加説明するなら、責任者の方向・方針に一体化できないということになるでしょうか。
・・・・が、このように4つに分けて、箇条書きで言われると、あまりにもさっぱり片付き過ぎて、かえってピンと来ない気がします。

一般にも「原罪」というものを自己中心とか利己主義と捉えているかたも多いようですが、私も大まかには賛成です。
さらに個人的な見方として、その症状を具体的に言うならば、私としては「妬み・嫉妬」という言葉が最も大きな比率を締めていると思いますし、原理講論の文脈(堕落の経緯)を見てもそのように書かれているように思えます。

「妬み・嫉妬」・・・・はっきりとした「怒り」、「苦しみ」というものに較べるとたちの悪いもので、人前であらわすには、みっともない感情ですね。
上記「二十一世紀への対話」の中でも、トインビーさんは
「自己超克こそ宗教の真髄です。」(二十一世紀への対話 中 p228)
「現代人が環境を支配できないのは、自己を超克できずにいるからです。」(二十一世紀への対話 中 p227)
と言っていますが、「妬み・嫉妬」以上に「自己超克」が困難な要素はほかにないかもしれません。
ことわざに「かげに女あり」というのがありますが、「かげに妬み・嫉妬あり」という出来事はもっと多いかも。

堕落性を脱ごうとするなら・・・・完全には、まあ無理でしょうが・・・・必ずぶつかる課題です。
人類が起こした二番目の大事件・・・・カイン・アベルの殺人事件もこれが課題ですね(創世記第四章)
(このへんは、個人的な見解ですので、見かたの違うかたも多いかも知れませんが)

こういうものが人間の本性のごとくに血統化(?)してしまったとすれば、どのようにして戻すのでしょうか?・・・・これには神様も大いに困ったのだとどこかに書いてありました。
神様は、もとに戻そうと動き始めて、「こいつならやってくれそうだ!」と思えるような見どころのある人格者を探しては、指示を与えたのですが、何度も失敗しています(・・・・神様ではなく人間の側の失敗ですが)
それでもなんとか成功にこぎつけて、もう一度誕生させたのがイエス様というわけです。アダム以降4000年もかかってしまいました(実際の年数ではなく、象徴的な年数)

イエス様が誕生してからも、うまくは行きませんでした。マタイ27/18からも「ねたみ」が出てきます。

「彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。 また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、『あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから』と言わせた。 しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。」

ユダヤ人たちが負った罪の大きさは、その後の歴史・・・・世界中へ離散、ホロコースト・・・・が証明していますが、実はそれが妬みから起こっていると言う人はなかなかいませんね。


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