世界史の勉強で「四大文明の発生」はとても重要なものと思い続けていましたが、最近はそうではないらしく、ネット検索してみると、「世界四大文明は、歴史観・文明観の一つ。20世紀以降の日本や中国でのみ用いられる言葉・表現」とあります。(Wikipedia)
さらに続けて「国際的に通用しない言葉であるだけでなく、学術上の提唱者すら不明であり、通俗的、慣習的に長年使用されている用語である。日本や中国では、紀元前3000年から紀元前2000年にかけて生まれたメソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明の4つの文明を世界四大文明としている。」とのこと。
私もその古い人間で「通俗的、慣習的に長年使用」してきたひとりだったわけですが、今回韓民族のルーツに関心をもったのをきっかけに、少し新しい知識を収集してみました。
とりわけ、立場上宗教の教えをある程度信じているものとして、聖書の創世記などに書かれた人類始祖からの様々な出来事との関連にも興味のあるところです。
「文明」という言葉も定義がはっきりしないようですが、長年の認識として、エジプト文明が最古と思い込んできましたし、教科書などでもそのように教えてきたと思います。
聖書・・・・特に創世記・・・・を重視するものとして、エジプトが先というのは奥歯にものが挟まったような状態で、願望も含めてイマイチ納得が行きませんでした・・・・この点はシュメール(メソポタミア)であってほしいのです。
ところが今では最古の文明をネットで調べてみると、意外に答えはシュメールと表示されるほうが多いようです・・・・国家が作られたのはエジプトが先だったかもしれませんが。
トインビーの「歴史の研究」にもこれに触れた部分がありました。この書自体が既に古く、1934年から発行され、30年もかけて書かれていて、その間ですら新事実が発見されるので、最後の方(22巻)には「再考察」という部分もありました。再考察の発行は1961年。
エジプトについての記述を引用しますと、
「エジプト文明の様式は・・・・(中略)・・・・シュメルの異質の様式からの刺激のもとで突然形を成したことを示す十分な証拠がある。シュメルの様式も同様に特異であるが、これは突然形成されたのではなくて、一連の段階を経て徐々に形成されたのであった。そしてその一連の段階の記録は、イラクに於ける考古学的発見の進歩によって、今や復元されているのである。」/22-p642
例えば、表記法について例を挙げると、エジプトで現れた表記法は原始的なものではなく、はじめから複雑な構造を持っていたのに対して、シュメールにはもっと原始的な段階があったとのこと・・・・エジプトではシュメールの影響を受けて突然発達し、シュメールでは原始的な段階から独自の発展が記録されているようです。
この時期のエジプトは非常に進歩が著しく、もとは他文明からの刺激だったとしても、メソポタミアの表記法を奴隷的に模倣したのではなく、独自の文字を発達させたとのこと。
インダス文明についても同様とのことが・・・・
「エジプト文明と同じくこの文明も、河川の流域を郷土として突然出現したという印象を与える。それは隣接する東イランの高地の新石器文化および金石併用文化から発達したようには思われない。この文化はその文字と進んだ煉瓦建築技術を出来合いの形でもった、他の場所からインダス河流域へ入ってきたように思われるのである。・・・・(中略)・・・・この文化もまた、シュメル文化の到達範囲内におり、・・・・(中略)・・・・しかし、インダス文化の場合には、われわれはエジプトの場合に於ける同様な仮説を裏付ける考古学的な証拠を持っていない。・・・・(中略)・・・・紀元前二千年代の中頃にインダス文化が確立されて後、それとシュメル世界の間に商業上の接触があったことをわれわれは知っている。インダス文字を刻んだ印章がイラクのシュメルの遺跡で発見されている。・・・・」 /22-p648
「われわれはシュメル人がペルシア湾を縦横に航行した航海民族であることを知っているが、その彼らがペルシア湾から進出してインド洋を探検し、そしてインダス河のデルタ地帯を発見したということは十分に考えられる。そして彼らがそこを発見したとすれば、チグリス、エウフラテス両河と似ているインダス河をさかのぼり、そして彼らの故郷と多くの類似点を持つ地域に植民し、海外におけるシュメル人の新しい国を創建したということも、大いにありうることである。インダス流域における最近の考古学的調査によって、この推測を支持する若干の証拠が実際に発見された。」/1-p166
では中国は?・・・・これはトインビーさんの時点では不明なことが多いようです。
その時点では最古の国は「商」で、「夏」の存在は確認できていなかったとのことですが、現在は夏王朝の実在が確認されています。
ただし、ここでも上記と同じことが言えるようです。
「商の文字と商の青銅鋳造技術に於て、われわれはエジプト文明とインダス文化の発生に於けると同じ謎に直面する。こういった業績が完全に発達した形で突然われわれの前に現れるのである。・・・・(中略)・・・・商文化はより古い或る文化の刺戟によって生まれたのではないだろうかと推測されるのである。われわれがその古い文化の影響を探知することができないのは、それが商文化の建設者たちにそれを模倣するのではなく、彼ら自身の独創的なものを作るように刺戟したからである。・・・・(中略)・・・・商の青銅が含有する錫は17パーセントに達する。文字は未熟でもなければ原始的でもない。中国の原始的な表記法の痕跡は、今日まで発見されていないのである。近代の中国文字の構成の主要な原理は、すべてすでに使用されていた」/22-p656
どこかから影響を受けたのは確かですが、どこからか、どのルートを通ってかが分かりません。
ネット検索してみると、以下の記述がありました。
「中国における文明の形成は、従来は黄河流域に始まるとされ、その黄河中流域に興った農耕文明を「黄河文明」と言っていた。しかし最近の発掘の成果では、黄河流域だけではなく、長江流域のも古い農耕文明の存在が明らかになっており、特に稲作農耕は長江下流域で始まったものとされるようになった。」
「世界史の窓」の「中国文明」より
これらの発展は、メソポタミアやエジプト(アフラシアステップ)とは別に発達したのではないかとの考えもあるようです。
「中国南部と東南アジアに於ける農業の発明はアフラシアに於ける発明とは無関係に行われたのではなかったか」/22-p658
「中国北部の文化のこの南方の源泉は、われわれの現在の知識では謎である」/22-p659
アフラシアステップの乾燥化が文明発生の一因とすれば、確かに中国という位置は少しずれたところですから、この地域独自というのもありかもしれません。
・・・・そういうわけで、中国の解明がイマイチな状態ですが、シュメール文明はエジプトやインダス(インド)よりも古いと言えそうです。この点では、私のえこひいきがちな気持ちも納得・・・・!
ところで、創世記によればアブラハムの故郷はカルデアのウルで、シュメール・アッカド帝国の住人でした(ウル第三王朝)。
この帝国は、シュメール人が建国したものをアッカド人が征服し、さらにシュメール人が取り戻しました。
このシュメール人というのも、どこへ消え去ったか分からない人たちのようで、しかも航海が得意だったというのですから、解明する側の判断を大いに惑わす人たちです。
創世記12章でアブラハムは神様から啓示を受け、国を出て親族に別れ、示すところに行くようにと支持されていますが、この時期は帝国が滅び始めていた時だったようです。
トインビーさんはこのことを、「(アブラハムは)最後の運命が迫っていた帝都ウルから脱出」 (/15-p77)という表現もしています。
*一部はこちらも参照:「文明と宗教・・・本命はどっち?」
アブラハムは啓示に従って西に向かい、一旦カナンの地に来ましたが、ききんがあってさらにエジプトまで行き、またカナンに戻っています。
この滅びの時期には、西に向かったアブラハムのような人だけでなく、「東へ東へ」向かった人たちもいました。
・・・・それが東夷民族だとも言われています。
ひょっとしたら、アブラハムと知り合いだったかも・・・・!?
「やあアブちゃん、君は向こうへ行くのかね、うちらはこっちへ・・・・じゃあね!」という会話があったかどうか?
以下、この頃のアブちゃんのことを先生の講和より引用します。
「アブラハムは、偶像商の息子です。豊かな生活をしているアブラハムに神様は、「おい、アブラハム、お前の家から出てこい」と命令されました。するとアブラハムは文句を言うこともなく、どこに行けば豊かに暮らせるという保証も受けずに、自分が住んでいるカルデアのウルを、すべて捨てて去ったのです。それで、どうなったのかといえば、国境を越えるジプシーとなったのです。
・・・・(中略)・・・・
アブラハムは、神様がどんなに引っ張り回しても、恨むことなく感謝する心をもっていったので、神様も彼を愛され、彼に、「お前の子孫は、天の星のように、地の砂つぶのように繁栄するであろう」と、祝福して下さったのです。
・・・・(中略)・・・・
神様は偶像商である彼の父親から、彼を分立させました。彼は、家族、祖国、物質的な富、そして、すべてのものを捨てなくてはなりませんでした。そのように、サタン世界から彼を断絶させることにより、彼は、カナンに入っていくようになったのです。
・・・・(中略)・・・・
聖書を見ると、私たちは、神様がアブラハムを祝福され、彼を無条件に愛されたような印象を受けます。しかし、そうではありません。アブラハムは、愛する家族、祖国、物質的な富、そしてその他のすべてのものをあとに残して、神様が選ばれた未知の地に行き、いつも神様と人々のために涙を流すことにより、サタンから自分を分立しなければなりませんでした。彼は民族のために多くの祈祷をし、国のために多くの苦痛を受けたのです。
・・・・(中略)・・・・
偶像商の息子アブラハムは、サタンが一番愛する人でした。しかし、神様は賢く愛らしいこの息子を奪ってきたのです。アブラハムが願ってきた世界は、彼の父親の思いとは違いました。怨讐の息子ではあったけれども、考えることがその父とは違っていたのです。アブラハムは、自分の家族のためだけでなく、未来のイスラエルをも心配する心をもっていたのです。
・・・・(中略)・・・・
嘆かわしい悲惨な歴史を収拾するために、神様はアブラハムを選ばれ、流浪の生活をさせたのです。そのようにしてアブラハムは、情の染み込んだ地、故郷をあとにして、旅人の路程を歩まなければならない悲惨な運命の道を選ばざるを得なかったのです。
ですから、アブラハムの行く道は、悲惨な道でした。国境を行ったり来たりしなければなりませんでした。ジプシーの隊列に入らなければなりませんでした。異邦の地で、よそ者の身を免れることができませんでした。それだけでなく、パロの悪賢い計略によって、自分の妻を奪われ、自分の一族が孤立する状態にまで追い込まれました。
・・・・(中略)・・・・
彼の前に近づくつらい苦痛と困難な環境は、他の人であれば、自分を呼び出した神様を背信し、自分の立場を嘆くようなものでしたが、アブラハムはそのような立場でも、神様とさらに深い因縁を結びうる心情で侍っていったので、彼の前には幸福の門が開くようになったのです。」
(牧会者の道p45-p48)